昔、雑誌の映画特集で竹中直人と室井滋が対談していて、私が
とーてーもー感動した
「ニュー・シネマ・パラダイス」をケチョンケチョンにけなしていた。なんでも「あの
子役(トト)の演技が、あざとくてむかつく!」とか、「この映画を好きだって人って、なんか分かるよねー。友達になれない」とか随分な言われようだった。(相当前の記憶なので、ちょっと脚色してるかもしれません。あしからず)トトの悪口を言うなー!なんでそんな穿った見方をするのだー!!と、私は怒った。それ以来、竹中直人と室井滋には、私はかなり厳しい。
さて、本題に入りましょう。
天才子役つながりで、今回取り上げるのはこちら!
「ピアノ・レッスン The piano」 1993年の作品。
《黒鍵の数だけ求めあった愛》
この映画に関して、とても記憶に残っていることがある。この年のアカデミー賞で、「ピアノ・レッスン」は
主演女優賞(ホリー・ハンター)、助演女優賞(アンナ・パキン、当時11歳)、脚本賞(ジェーン・カンピオン監督)の3冠受賞となったのだが、脚本賞を受賞したジェーン・カンピオンが舞台に上がったとき、プレゼンターの
ジェレミー・アイアンズが、彼女を引き寄せて個人的に祝福の言葉らしきものを囁いていた。マイクを通していなかったので、何を言っていたのかはわからないけれど、ジェレミーの表情を見ていたら、彼がおそらく「ピアノ・レッスン」にかなりの感銘を受けていたのだろうと、想像できた。とても素適な一場面で、今でも忘れられない。
19世紀のニュージーランドに、遠い遠いスコットランドから、親の決めた写真お見合いで船に乗ってやってきた
エイダ(ホリー・ハンター)。エイダは幼いころに自ら言葉を話すことをやめ、代わりにピアノを弾くことで感情を表す孤独な女性。しかもシングルマザーで、9歳の娘
フロラ(アンナ・パキン)が、娘というよりは通訳兼ママのお世話係りのようにぴったりと寄り添っている。
海岸にエイダを迎えに来た、夫となる
スチュアート(サム・ニール)は、エイダがスコットランドから大切に運んできたピアノを、邪魔だと言って海岸に置き去りにしてしまう。ところがそのピアノをスチュアートの友人で現地のマオリ族に溶け込む変わり者の
ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)が、土地と引き換えに手に入れたことから、悲劇的な三角関係へと発展していく。
エイダは固い蕾のように、心も体も頑なに閉じた女性で、夫となる人に指一本触れさせない。ピアノだけが彼女の心を自由にしてくれる。
小柄で青白い顔、修道女のような黒いドレスに身を包んだエイダに初めて会ったときの、スチュアートの一瞬落胆する顔は見ものだ。(サム・ニール上手い)勝手に写真(というより肖像画)でイメージを膨らませていた花嫁の現実の姿を見たとき、成熟した女の色気は皆無のようなエイダにちょっとがっかりのスチュアート。同行したベインズに「(彼女を)どう思う?」と尋ねる。
ここは冒頭のシーンでつい見逃しがちだけど、すごく大事なシーンだ。もう既にここで、スチュアートとベインズの違いが表れている。
ベインズはエイダの様子を見つめて答える。「She looks tired.(疲れてるみたいだ)」。するとスチュアートが言う。「それに発育も悪い。」
ベインズ の言葉には優しさがある。スチュアートは自分中心の言葉を発している。同じ女を見ているのに、ベインズとスチュアートでは最初から見方が全然違っているのだ。
ベインズからピアノを取り戻したいエイダに、ベインズはセクハラまがいの提案をする。エイダがピアノを弾く間に、自分に好きなことをさせろ、と言うのだ。好きなことってのは、見たり触ったり、ようするにセクハラ行為だ。(信じられませんね!)けれどベインズという粗野で無学で、ストレートで愚直な男には、それが精一杯の愛情表現だった。そしてはじめは当然拒絶するエイダも、これを徐々に受け入れていくのである。(しかしハーヴェイ・カイテルのヌードはスゴイ。すごすぎる)
このあたりの流れはものすごくデリケートだ。これを男性監督が作ったら、フェミニスト団体猛反発!になりかねないが、女性監督ならではの微妙な演出で、じわじわと見せる。はじめは抵抗していたエイダが、いつしかベインズの視線なしではピアノを弾けなくなっていく過程。蕾が花開き、ベインズへの愛に目覚めるエイダの表情の変化は、けなげささえ感じられる。
ベインズという男は行動が動物的だし、非情に原始的な人間として描かれている。まさに
「オス」だ。けれども愛する女を思いやる心がある。スチュアートに欠けていたもの、それは相手を思いやる心だ。そしてエイダはたぶん初めから無意識にそれを見抜いていたのだと私は思う。海辺に置き去りにされたピアノの元へ連れて行ってくれるよう、ベインズに頼んだそのときから、きっと本能で分かっていたのではないだろうか。「私を救ってくれるのはベインズだ」と。
この映画のラスト、ピアノと共にエイダが海に飛び込むシーンは、当初そのままエイダが死を迎える悲劇として終わる予定だったそうだ。それが、製作過程で、主人公が
「生きよう」としているように感じられて、幸福な結末に変更されたのだと、カンピオン監督がインタビュー記事で語っていた。良かった・・・。死んで終わったら、後味悪くて一生恨むとこだったよ・・・。
この映画の魅力のかなりの部分を占めているのは、やはりマイケル・ナイマンの音楽だ。テーマ曲は以前、車のCMにも使われていた。ただ美しいメロディーなのではなく、心をざわめかせる、非常に印象的な旋律で、当時はサントラを繰り返し聴いていた思い出がある。
この映画は、数ある恋愛映画の中でも、常に私のナンバー1だ。
娘役のアンナ・パキン。当時はこんなに可愛かったです