先日
「ダ・ヴィンチ・コード」を見た後にある映画を思い出しました。
80年代後半に公開された、
マーティン・スコセッシ監督の
「最後の誘惑」です。
私がまだ10代の頃に公開された作品で、
キリストと
マグダラのマリアのラブシーンがある(幻想シーンだけど)映画だというので物議を醸し、世界中で上映に際し反対運動が起こった問題作だったという記憶がありました。
当時人気上昇中だった
ウィレム・デフォーが主演していてかなり話題になっていたものの、
「ひょっとしてキワモノ?」的な思いもあって鑑賞することもないまま現在に至っていたのです。
「ダ・ヴィンチ・コード」では、イエス・キリストは神ではなく人間であり、マグダラのマリア(定説では娼婦とされているが、それは間違いらしい)と婚姻関係にあり、子孫も残している、という説が示されているけれど、じゃあ20年近く前に作られた「最後の誘惑」では、イエスはどんなふうに描かれているのだろう、と急に気になってしまいました。そもそも、「最後の誘惑」というタイトルは何を意味しているのだろう、と。
ということで今更ながら初挑戦した巨匠スコセッシ監督の「最後の誘惑」。これは、
ニコス・カザンザキスという作家の小説を映画化したフィクションだそう。脚本が
ポール・シュレイダー、撮影が
ミヒャエル・バルハウス、そして音楽が
ピーター・ガブリエル。(ピーガブですよピーガブ!キリストの映画にプログレ?!)
出演者も主演のウィレム・デフォーの他に、裏切り者
ユダ役が
ハーヴェイ・カイテル!そして、
ローマ帝国の総督役に
デビッド・ボウイまで。なんだか凄い面々じゃないですか。否が応でも期待が膨らみますです。
実際に観た感想は、ズバリ
「想像以上に良かった」の一言。(私はキリスト教に対し不勉強でまともな知識を持っていないので、もしかしたら非常にとんちんかんな感想を書くかもしれないけれどお許しを。)
スコセッシ監督の映画=長いという図式が私の頭の中に出来上がっているゆえ、見るときはそれなりに覚悟するのがいつものこと。長い上、今回は非常に静かなタッチで淡々と語られていくシーンが多いので、正直ちょっと眠くなったところもありました。けれども後半に進むにしたがって、不思議な緊迫感が心に生まれ、画面に吸い込まれます。息を詰めてイエスの行く末を見守ってしまうのです。
最後の晩餐のシーンも、名画で見る構図とはかなり違っていて、とても素朴で新鮮でした。静かな悲しみに満ちているのです。
この作品の特徴は、イエスという人物を生まれながらの神の子、特別な存在として位置づけているのではなくて、
ごく普通の一人の人間として描いている点です。処女マリアが身籠った聖なる神の子ではなく、普通の家庭に生まれ育ったごく平凡な男。その男がなぜか神に「代弁者」として選ばれ、それゆえ苦悩する姿を追う物語になっています。イエスの頭の中に、時々響く神の囁き、お告げ。それは身悶えるような肉体的苦痛を伴い、イエスを苦しめます。なぜ神は自分を選んだのか、なぜこれほどの重圧を神は自分に与えるのか、イエスは葛藤し、逃げようとすらするのです。けれども、あるときを境に、彼は神のお告げを代弁する
「救世主」として、人々を先導する役割を引き受ける決意をします。
最初は迷いが前面に表れ頼りなさすら感じさせる風貌のイエスが、ユダを始め多くの使徒たちと共に旅をしながら教えを説いていくうちに、風格と落ち着きを備えた威厳を漂わせていきます。それでも、私が今まで抱いていた「聖人」としての全知全能の寛大なイエス・キリストというイメージとはかけ離れていて、デフォー演じるイエスは、普通に怒りも抱くし、衝動的に破壊行動を起こしたり(笑)、非常に人間的です。女性への欲望ももちろん持っている。そういう、生身の人間である一人の男が、いかにして「革命者」「救世主」と変貌していったのかを、大袈裟でなく淡々とした演出で見せてくれます。そしてその過程で、どれだけイエスが悩み苦しみ葛藤したかが見ている側にも伝わってくるのです。
余談ですが、死者を蘇らせたり傷を治したり、超常的な現象もいくつか出てくるのが結構面白いです。サイババみたいです。それから、前半部分でイエスが旅の途中で出逢い洗礼を受ける相手が、どう見てもカルト教団の教祖に見えるんですけど、あれが不思議です。あんな大昔からカルトって存在してたんでしょうか。それよりもあんな怪しげな団体を見て、いぶかしく思わないイエスも私は不思議ですが。
(ちなみにイエスは弟子たちから「マスター(先生)」と呼ばれています。マスターと言えばマスター・オブ・ジェダイ。・・・なんでもありません。独り言です。)
この映画でなんと言ってもいい味を出しているのが、やはり
ハーヴェイ・カイテルですね。赤毛のパンチパーマ(?)で一応それっぽい役作りをしているものの、立ち居振る舞いはいつもの荒っぽいハーヴェイなので、最初は
「この配役ってどうなのよ?」と一抹の不安を感じた私ですが、見続けていくうちに、ハーヴェイの持つ粗野だけど素朴な優しさとか一途さが、役柄によく投影されていて好感を抱いてしまいます。そうです!ユダは悪者ではないのです!近年の研究で、ユダは自らの意思で裏切ったわけではなく、イエスの指示を受けてあえて裏切り者の役を引き受けたという説が濃厚になってきたとチラッと聞きましたけど、この作品でもユダはそういう描かれ方をしています。ユダはイエスにとって一番弟子であり、親友でもあり、深い絆で繋がっているんです。こういう師弟愛、同士愛って、そこはかとなく同性愛的な匂いがつきまといがちですけど、ここにもぼんやりとそういう気配は漂っています。(ハーヴェイとデフォーのキスシーンまであるよ。)
イエスは道を進むにつれ、自分がローマ帝国に捕らえられ十字架に磔にされて死ぬことを、神が導いていることに気付きます。自分が犠牲となって死を受け入れることで、死を超越して復活し、本当の意味での人類の救済が訪れるということらしいのですが(このへんの解釈がキリスト教に疎い私には難しい)、当然イエスは一人の人間として悩むし、恐怖に震えるのです。でも葛藤のすえ、神の導きに従うことにし、ユダに自分をローマ帝国に密告するよう頼み込む。ユダも当然悩むのだけれど、愛し信じる師であるイエスの意思を汲み、あえて裏切り者の役割を引き受けるんですね。このあたりの描写を見ていると、ユダをハーヴェイが演じた意味、その効果がよく分かる。シンプルで愚直な愛情が似合う無骨な男、ハーヴェイなのです。(ちなみに最初のほうのシーンで、ハーヴェイが太もも剥き出しでアクションするシーンがあるんですけど、何かに似てるなーと思って浮かんだのが「座頭市」。なんとなくですが。)
私が一番知りたかった
「最後の誘惑」というタイトルの意味。これは映画の終盤の数十分で明かされます。なるほどこういう意味だったのか、と頷きました。そしてこのラスト数十分のシーンこそ、キモの部分と言えると思います。イエスが普通の生身の人間の男であり、だからこそ神に選ばれたくはなかったという、心の底からのイエスの叫びが浮かび上がるんです。
普通に生きたかったんですよね、イエスも。可哀相な人なんですよ。一度は神の意思を受け入れる決意をしたものの、実際に十字架の上での想像を絶する苦痛を体感したら、ただひたすら逃げ出してしまいたくなる、神をも恨みたくなる。そんな普通の人間の原始的な叫びしかそこにはないんです。
でも、イエスは神に「救世主」として、「息子」として、たった一人選ばれてしまった。「最後の誘惑」を必死の思いで振り切り、神の意思を受け入れて自らを犠牲にすることによって、人々の心を真に救う「伝説」となる道を選んだ、そういうことなのかな、と思いました。
「伝説」というのは、ただ立派な人がいるとか、大きな出来事があったとか、それだけでは「伝説」にはなり得ない。その人物なり出来事なりがこの世から消えたあと、残された人々の心の中に何か壮大なもの、衝撃的な感情が湧き起こって初めて「伝説」が生まれるのかな、そんなふうにも感じます。
とにかく、
ウイレム・デフォーは熱演です。体張ってます。まだ30代前半で若々しく、なかなか(個性的だけど)ハンサムでもあります。後半老けメイクで出てくるんですけど、実際現在の老けたデフォーの悪人面を知ってるこちらとしては、
「その老けメイクは甘いぞ」と言いたいものがありました(笑)。でもデフォーの誠実で熱のこもった演技があるからこそ、イエスという主人公への共感を抱くことができ、胸に迫る作品になったと言えますよね。
出演シーンの少ない
デビッド・ボウイも、ローマ人特有の髪型がなんとも不思議ちゃんで、淡々とした演技も返って印象に残りました。どことなくバカ坊ちゃん風なとこが、妙にリアルといえばリアル。
マグダラのマリア役は
バーバラ・ハーシーで、正直公開当時も
「なんでバーバラ・ハーシーなんだ?」と感じたんですが(笑)、ここでは定説どおり娼婦として登場しておりかなりの汚れ役。女優が引き受けるには、なかなか勇気の必要な役だったかもしれません。最後のほうで磔にされたイエスを、目を背けることなく見守っていた姿が印象的でした。
ラストシーンの後にパッとビビッドな蛍光色のような眩い光が差し込み、映画の内容とは対照的とも言える現代的な音楽が聞こえてくる演出にはやられました。面白いですね、こういうの。
まるで福音の鐘の音のようにも聴こえる希望を感じさせる音色でありながら、どこか硬質でストイックで前衛的でもある単純なメロディのリフレイン。イエスの祈りが、現代を生きる私たちにも自然に引き継がれているのを知らせるような切り替え方です。ここで静かな物悲しいオーケストラ風の音楽を流すのが普通なのでしょうが、あえてこういうエンディングにした演出はスバラシイと思いました。さすが
ピーガブ!
この作品は、やはりキリスト教に対して何の知識もないまま見るのと、多少なりとも理解があって見るのでは、映画の解釈にもかなり差が出るような気がします。
私は非常に疎いので、一度見ただけでは理解できない部分もかなりありました。それでも、人間としてのイエスにスポットを当ててくれたことによって、より身近に生々しく、イエス・キリストという人物を感じることができたと思います。
フィクションですが、「こんな解釈の仕方もあるんだな」と心に響く物語でした。
追記:物語の性質上、残酷なシーンやグロいシーンはやっぱり避けて通れなかったけど、ギリギリ私でも耐えられる範囲でした(ちょっと目を背けちゃったけど)。スコセッシ監督はそのへんの抑制は心得てらっしゃる。
メル・ギブソンの
「パッション」も気になるところではあるけど、残虐描写がすさまじいらしいので、私はやめときます、ハイ。