相手のすべてを理解し受け入れようとして向かっていく愛情と、相手の意思を尊重して決して必要以上に踏み込まない愛情では、どちらが本当の優しさなんだろう。
きっと誰もがどちらのカタチにも、覚えがあるのではないかと思う。バランスのいい100%上出来の愛情なんてなくて、みんな一人一人偏った愛情を持て余したり、表現の仕方を間違えたりしながら、それでも何度も誰かを好きになって生きているのだと思う。
そして私はやっぱり思うのだ。「踏み込まない」より「理解しようとする」方が、暖かい愛情なのではないかなと。
「ナイロビの蜂」を見た。
予告編で見たときは、
レイフ・ファインズ主演ということもあって、
「イングリッシュ・ペイシェント」のような壮大な悲恋ものという印象が強かった。
ところが実際に観て驚いた。夫婦の悲しい愛の物語ではあるけれど、そんな甘い想像が吹き飛ぶほど、残酷で悲痛なアフリカの現状を告発した社会派サスペンスに仕上がっていたのだ。
穏やかで物静かなアフリカ駐在の外交官
ジャスティン(レイフ・ファインズ)と、アフリカの貧困層の救済に情熱を傾ける活動家の妻
テッサ(レイチェル・ワイズ)。対照的な二人は深く愛し合っているものの、互いの領域に決して踏み込まない。ジャスティンは庭の植物の手入れが趣味、テッサは使命を同じくする黒人医師
アーノルドと始終行動を共にして、ナイロビの町へと繰り出しては現地の貧しい人々への支援に精を出す日々。
突然のテッサの死をきっかけに、その裏に渦巻く製薬会社を舞台にした巨大な陰謀に気付いたジャスティンは、テッサが命の危険を顧みず告発しようとしていた闇を知るために妻と同じ道を辿り、自らもアフリカの悲惨な実情を探り始める・・・。
テッサは激情型で正義感の強い、戦う女性。ストレートすぎて周囲に敵を作りやすいタイプとも言え、見ていて危なっかしい。物事を上手く進めるには、押すだけじゃなく引いたり回り道したり、相手の懐に柔らかく潜り込んだりすることも必要なのに、そういう小細工なしに突っ走ってしまう性格なのだ。
ジャスティンとの出逢いの場でも、彼女はその情熱的な使命感をぶつけすぎて周囲から顰蹙を買い、自己嫌悪に陥る始末だった。そんな彼女の不器用なまでの真っ直ぐさに惹かれたジャスティン。性格は正反対なのに瞬く間に愛し合うようになる二人。(ここの展開がめちゃめちゃ速い。ちょっと唖然)
テッサにしてみれば、おそらく思い込みが強くてエネルギッシュな自分の性格を時には持て余していただろうし、そういう自分を優しく受け入れて守ってくれるジャスティンの存在は、心のオアシスになったのだと思う。ないものを補い合っている二人は、当然生き方のペースも見ているものも全然違う。その違いを、大人の二人は「相手を尊重する」というスタンスで受け止め、決して無理に立ち入ったりしない。それは究極の優しさのようでいて、やはりどこか他人行儀。本当は相手を疑っているのに訊く事すらできない。何かがおかしいと思いながら、問い詰めることをためらう。それって、優しさと言うよりも、踏み込んで真実を知ること、相手のすべてを受け入れることで自分も傷つくかもしれないリスクを恐れているとも言えないか。ジャスティンは、踏み込まなかった自分を、テッサの死後になって悔いることになる。
惨殺されたテッサの謎を探るうちに、少しずつ明らかになっていく事実。なぜテッサはこれほどの危険な真実を自分には決して打ち明けなかったのか。真相を知れば知るほど、心が離れていたかのように見えた妻が、どれほど自分を大切に思い愛してくれていたかに気付くジャスティン。
テッサの辿った道をなぞり、巨大な陰謀を暴いていく過程で、刻々と自分も「死」へと近づく恐怖と背中合わせに、本当の意味でテッサへの真実の愛に目覚めていくジャスティンの最後の選択は、賛否の分かれるところかもしれない。私もジャスティンの生き方を、やはり素直に賛成はできなかった。でも、受け入れられると思った。ああいう形での決着のつけ方が、ジャスティンなりのテッサへの愛の昇華だったのだと思う。あそこまで行き着いて初めて、ジャスティンはきっとテッサの魂に本当に触れることができたに違いないから。尊重して踏み込まないままではなく、すべてを失っても相手を知り理解しようとする想いが、ジャスティンを本当の意味で強くしたのかもしれない。
レイフ・ファインズは、こういう役どころは本当に得意中の得意という感じで、その抑えた表情に悲しさがじわじわと滲み出ていて文句なし。
脇役も
ピート・ポスルスウェイト(
「ユージュアル・サスペクツ」のコバヤシ役が久々に見たい)や、
「ラブ・アクチュアリー」の
ビル・ナイなど渋いところが固めていて良かった。ビル・ナイは、出てくるだけで胡散臭い雰囲気が
イギリス版ジョン・マルコヴィッチって感じで結構お気に入り。(スーツでビシッとキメて、すました演技を披露していたけれど、「ラブ・アクチュアリー」みたいにいつ歌いだして脱ぎだすかと余計な心配をしてしまった。いえ、もちろんそんなシーンございません。)
そしてやはりなんと言っても、この作品は
レイチェル・ワイズ。特別上手い演技を披露するわけでもなく、何か「これ!」という見せ場があるわけでもない。(
妊婦ヌードはある意味見せ場だけど。笑)さすがオスカー助演女優賞!とうならせるような技があるわけでもない。ないんだけど、彼女の存在感そのものが、この作品を彩っていると言っても過言ではないはず。
この人ってハリウッド作品ではイマイチ良さが活かされていない気がするし、キレイだけどちょっとイモくさいところもあって、これまではブレイクしきれない女優という印象だった。
ジュリエット・ビノシュにも通じる「生臭さ」が漂う女優さんなので、キレイどころを演じても、下手すると妙に野暮ったく見えてしまったり。
けれどもこの作品では、その持ち味が逆に活きている。彼女特有の土臭い人間性が、ザラザラとした映像と相まって、テッサという激しく生き急いだ女性の息吹を生々しく感じさせるのだ。特に死んだ人物の過去に焦点を当てるストーリーの場合、生前その人物がどれほど魅力的で(その逆もあるけど)、生き生きとしていたかが伝わるかどうかが肝だと思う。そういう意味でもレイチェル・ワイズの生身の人間らしさが、いい意味で花開いたと言えるかも。
もうひとつ。アフリカで今も続いている貧困と悲惨な実情を、
「これがここの現実だから」と自分を納得させて受け流してしまうことの罪深さ。それをこの映画に突きつけられた気がする。正直、私はこういう方面には非常に疎く、よほどの機会がなければこういうテーマの映像を見ることもなかった。世の中の多くの人がそんなものだと思うし、現地に暮らすジャスティンでさえ、心は痛めても何かをしようとは思わずに生きてきたのだ。
けれども、そういう「無関心」が何より残酷だということを、改めて考えさせられた。地球の反対側でこういう現実が毎日繰り広げられていることを、知ろうともしなかった自分の罪について、初めてまともに恥じ入ったような気がする。
この映画を見たいと思った大きな理由の一つが、予告映像で見た
アフリカの子供の愛らしい表情だった。てくてくと歩きながらこちらを見上げる瞳の、無邪気で吸い込まれるような美しさ。はにかみつつも疑うことを知らないような可愛らしい笑顔。世界中の子供の中で、アフリカの子供の笑顔が一番美しいと思うのは私だけだろうか。
白人の自動車に無邪気に群がる子供たちの笑顔。ふと思ったのだけど、戦後の日本で米兵に群がって
「オッちゃん、ギブミー!」とねだっていた日本の子供もまた、こんな邪気のないキラキラした眼をしていたのではないかしら。ちょっとビービー泣けば、じいちゃんばあちゃんがなんでも買ってくれるような現代の日本の子供たちは、ああいう表情はしてないような気がする。もちろんそういう子供ばかりではないだろうけどね。
映画の中で、現地の子供たちはひたすら歩く。走る。想像もできないほどの長距離を、その細い体をひたむきに動かして歩き、走る。その姿が本当にけなげで悲しくてせつなくて、でもとても美しいのだ。歩く姿に、彼らなりの哲学が見えるような気さえしてくる。
けれどこの映画がキレイ事で終わらないのは、そういう美しい顔がある一方で、認めたくない暗い現実も提示しているところにある。お金で雇われた殺し屋たちの姿は、シルエットだけだから詳細は分からないけれど、明らかに現地の人間であり、しかも体型からして少年も含まれていたのではないかと思う。そういう悲惨な真実もまた、アフリカの顔なのかもしれない。
「踏み込まないこと」は真の愛情ではなくて、無関心にも通じる。例えおせっかいでも、真正面から相手を知り、理解しようとする気持ちこそ、本当の意味での愛かもしれない。それは人に対してだけでなく、もっと大きな意味で、この世の中のあらゆる人、モノ、国、すべてに向けて言えることかもしれない。そんなふうに、ちょっと立ち止まって振り返ってみたくなる映画だった。
追記:レイチェル・ワイズの妊婦入浴シーンがスゴイ!でもそのお姿以上に衝撃だったのは、泡のお風呂から出る時にお湯で泡を洗い流さず、そのままベタベタとタオルで体を拭いてしまう習慣だ!噂には聞いていたけど、欧米って本当にそうなのね・・・。
「おい!だから鮫肌になるんだよっ!!」とスクリーンに向かって心で叫んだ私でした。